「嫌い」を口にしない方がいい理由
金土日と熱で寝込んだのですが、まだ頭の芯がぼんやりしています。
インフルではないらしいとのことなので一安心なのですが、早く体調復帰してほしいところです。
なぜ「嫌い」と言ってはいけないのか
みなさん、なんで「嫌い」を口に出したらいけないのか考えたことありますか? 私は小さいころから、ずっと不思議に思っていました。
例えば「あなたのことが好き」と言うのはたいていの場合良いとしても、「あなたのことが嫌い」と言うのはたいていの場合駄目なんです。
それが同じ大きさの気持ちだとしても、「好き」は許されるけれど、「嫌い」は伝えることを許されません。
それってなぜなんでしょう。
10年以上考えてきて、今のところの答えをまとめてみます。
「嫌い」は敵意だから
まず、「あなたのことが嫌い」という人が現れたらどう感じるでしょうか。なんとなく怖くないですか?
真っ先に「なんの狙いがあってこの人はここにいるんだ」と身構えてしまいます。
このようなことは社会生活上、好ましいこととは言えません。自分以外は全員他人なわけですから、何を考えているかわかりません。
自分の敵かもしれない人の存在を感じるのは恐ろしいというのは当たり前で、恐ろしい存在がいるというのは精神衛生上よくない。
そのためでしょうか。例えば、礼の姿勢として、日本では「お辞儀」をします。
諸説ありますが、頭を下げることにより目線をそらし、「あなたを狙っているのではありません」ということを表明できますし、さらに首を差し出すことにより「今この瞬間私の首を落とせるでしょう。そのような無防備な姿を晒すくらい、あなたに信頼を寄せていますよ」ということを表明しているとかなんとか。
他人と他人のコミュニケーションにおいて、「敵意がない」というのを示すのは、落ち着いて会話をするための第一歩なわけです。
よって、「嫌い」ということにより、一種の敵意を示すのは、「コミュニケーションの拒否」を表すわけです。
今回は「あなた」が主軸だったので、想像がつきやすかったかもしれないですね。
それでは、これが例えば「本」だとしたらどうでしょう。
あなたの好きな「本」が否定された時は「あなた」についての否定ではないわけですけれど、多分いい気分はしないですよね。
これは恐怖ではないと思われます。
「好き」な人が傷つくから
なんとなく訪れた本屋で、自分が好きな本を「この本嫌い」と友人に言われた時、どう思うでしょうか。
おそらく何かモヤ…とするでしょう。
そのために友達をやめる、ということはあまりないかもしれませんが、場合によってはあるかもしれませんね。アイドルの誰推しとかそんな話聞いてる限り、そんな気配を感じます。
自分ではないものを否定されただけなのに、なんかモヤモヤする。これは「バランス理論」で説明ができます。
まず、私と友人が同じ本を好きだった場合は、スッキリです。
それと同じように、私が嫌いで、敵が好きな本という状況も、スッキリです。均衡が取れています。嫌いな奴が好きなものなんてどうせろくなものじゃないんですよ(という理論です)。
ここからが問題で、まず、私が好きな本を敵が好きな場合。
この場合は「相手にその本を嫌いになってもらう」か「自分がその本を嫌いになる」、「相手のことを好きになる」という状況にならないと、なんだかモヤモヤします。これが不均衡な状態です。
学校なり職場なりで、嫌いな人と服が被ったら「うわっ」てなりませんか? それです。
また、これも不均衡の例なのですが、私が嫌いな本を友人が好きな場合。
この場合も「相手にその本を嫌いになってもらう」か「自分がその本を好きになる」、「相手のことを嫌いになる」という状況にならないとモヤモヤします。
大切な友人が、ものすごく男癖なり女癖なり悪いやつと付き合い始めた時の「うわっ」て感じですかね。
さて、なんかごちゃついてきましたが、相手と仲良くしたいということを考えると、この図が一番良いわけです。
「相手も私も同じものが好き」という状況ですね。すごくハッピーです。
念のために言っておくと、同じ均衡状態でも、「相手も私も同じものが嫌い」は正面から殺し合うので良くないです。
相手と仲良くしたいという思惑があるのであれば、「相手の好きなものを嫌いと言わない」のは大事なことで、ついでに言うと、「相手の好きなものがわからないならむやみに嫌いなものの話をしない」ってことです。
知らない間に地雷踏み抜いて、相手にモヤモヤを植え付ける可能性があるからです。
ここで生まれるのが、「じゃあ嫌い同士なら嫌いって言っても良くない?」という疑問です。
「嫌い」は発展しないから
最後に、「嫌い同士の集まりは駄目なのか」という話です。
個人的には、ある程度はいいと思います。
人間なので、好き嫌いあって当たり前。嫌いを吐き出すにも場所が必要なら、同じ「嫌い」同士で集まって、小さくまとめてポイが一番だからです。
ですが「嫌い」の終わりは「滅び」しかないのでは? というのを考えると、嫌いを考えるのはあまり良くないと思っています。
よく「争いは何も生まないんだ」と言いますが、ある程度目的があって、それを決着させるためのぶつかり合いなら何かを産むことはあるでしょう。
ですが、「嫌い」ってもう着地点が決まってるんですよね。特に何かの決着を求めている訳ではなく、「嫌い」から始まって「嫌い」に終わるんです。
早い話が徒労である可能性が高いです。時間の無駄です。
それなら「好き」も着地点が決まっているか、というと、確かに着地点は決まってるんですよね。
でも、「好き」から始まるとタテヨコに広がりを見せることが多いです。主観ですかね?
あれが好きなので、これも好き。それじゃあこれに関係するこれについて、もっと調べてみよう! というふうになりませんか?
これが「嫌い」だった場合はどうでしょうか。結構横滑りを続けるだけではないでしょうか。あれも嫌い、これも嫌い、だからそれも嫌い。
結局身の回りに溢れるのは、触りたくもない気持ちの悪い「嫌いなもの」ばかりになってる…というわけです。
ゾッとしますね。嫌いなものについて「嫌い嫌い」とするのは、ほどほどにしないと、嫌いなもので溺れてしまうわけです。
なので、「好き」に目を向けた方が、物事は深掘りしやすく、なおかつ幸せです。
多分、自分のために「嫌いなもの」はできるだけそっとしておいて、「好きなもの」を考えた方がいいのです。考えれば考えるほど増えるのが知識なので。
ひとりで生きてるのでなければやめといた方がいい
結論として、「嫌い」はひとりで生活していく上では問題ないけど、やりすぎると「社会」を滅ぼすので良くない。
「あれが嫌いこれが嫌い」と言って生活できるのはおそらくインターネットの中だけですね。
全世界が一瞬で繋がる世界なので、自分の嫌いなものは徹底的に排除しても、誰かしら仲良くなれる人がいるわけです。
現実世界で社畜とか学生とかしていくには、肉体がある以上行動範囲も限られたものですし、夜道で刺されたらおしまいなので「好きなもの」を積極的に考えておいた方が良さそうです。
それでもまあ、あんまりにもアレな時には嫌いなことを言うのは良いでしょう。そういう時には、特に心を許した友人か、インターネットの大海に放流するのがおすすめ…というのが、私の今の結論です。