コミュニケーションはキャッチボールではない
カバヤの「脳メシ」っていうブドウ糖食べたらただのラムネでした。
ただのラムネを「脳メシ」と命名するだけで、なんか良さげな感じがするので、言葉ってすごいです。味はマジで普通のラムネです。
今日は、コミュニケーション拗らせて大学で言語学や心理学の勉強をした私が、「コミュニケーション」について書いてみます。
コミュニケーションには相手が必要
もしもブログ書いたりするくらい情報発信が好きな方なら、一般的な人に比べてコミュニケーションについて考えたこともありそうですが、今読んでくださってるあなたはどうでしょう。
そもそもコミュニケーションってなんでしょうね。語源を見てみましょう。
communicate
com-「共に」mun「変える」-ate「する」
お互いの認識を変える
【動】やりとりする
要するに、「お互いが変わる」というのが語源らしいです。双方のやり取り、ということですね。ふむ。
ですが、私は「コミュニケーションは受け手が決める」という言葉がとても好きです。
コミュニケーションはキャッチボールではない
コミュニケーションは双方のやり取りではありますが、そのコミュニケーションについて決めるのは、必ず受け手だと思っています。
というのも、コミュニケーションは「キャッチボール」ではないからです。
キャッチボールというのは、ボールを投げあいます。
私があなたにボールを投げても、あなたが私にボールを投げても、ボールはボールのままなのです。
これを言葉に置き換えたなら、私があなたに言葉を投げても、あなたが私に言葉を投げても、言葉は言葉のままということ。
でも、これが本当なら「誤解」は生じないはずです。
実際は、言葉は変質します。
同じ「馬鹿」でも、普段のふざけ合いで友人が言ってくるものと、今にも別れそうな険悪なカップルが発するものと、取引先で大失敗した部下に対して上司が言うものでは、全然違うのです。
私は、コミュニケーションは「トランプの表裏を反対にしたババ抜き」のような状態だと思っています。
私があなたにトランプを見せた時は、すべて同じ柄に見えるのですが、あなたにはいくつかの色や数字が示されています。
逆に、あなたが私にトランプを見せた時は、いくつかの色や数字が示されていますが、あなたからみたらひとつの柄しか見えないのです。
コミュニケーションの難しいところは、「話し手にとっては意味はひとつなのだけれど、聞き手にとっては意味がたくさんある」というところなのです。
そしてこれは当たり前で、毎日誰にでも起こっていることです。
もしも「この人は私のことを理解してくれない」という状況であれば、あなたは手札の説明をしなさすぎの可能性があるわけです。
私の発した言葉を、あなたがどのように汲むかはあなたの自由で、私にできる一番穏便でお互いにとって幸福な策は「意味の選択肢を少なくすること」です。
つまり、カードを見せるだけではなく、補足情報として「私は赤いハートの4を意図してこれを発言しました」ということも伝えるのです。
ここで、相手が「赤」「ハート」「4」を理解できるか、ということにも気をつけた方が良いです。
私の常識は相手の非常識。
相手にとってわからない情報を投げ続けているのは、もはやババ抜きでもなんでもなく、ただのギャンブルか、時間の無駄です。
私が中学校卒業時に友達に言われたこと
私が「コミュニケーションはキャッチボールじゃないんだな」と気づいたのは、中学校の卒業式です。
ありがたい校長のお話でも、先生のお話でもなく、同級生の一言でした。
卒業まで2年間仲良くしていた同級生に、「雁ヶ金の話してること、難しくて半分も意味わかってなかったかも」とあっけらかんと言われたのです。
びっくりしました。人生で一番の気づきの瞬間だったかもしれません。これがきっかけで文学部で言語学専攻しましたし、10年後の今もこうして、コミュニケーションについて語っている状況です。
日本語として全く問題のない文章でも、相手が意味を知らなければ、それはコミュニケーションとして成立しないのです…。
タイトルの通りIQ140の私は、常日頃から難しい言葉を使いがちだったようなのですが、大人には問題なく伝わるのでなんとも思っていませんでした。
それが、まさか同級生には伝わっていなかったなんて…。
彼女は「でもわかんないって言ったら馬鹿だと思われるかなと思ってて、適当に話してたの!」と言っていました。良い子でした。
日常だけではなくビジネスでも大事
「わかんないならわかんないって言ってね」と言えたら解決になるかと言うと、そういうものでもないのがコミュニケーションの難しいところです。
なぜかと言うと、相手が「そういう意味である」ということを疑っていないからです。あなたに見えている赤が、他の人にとっての青だとしてもわからない…みたいな、そんな感じです。ちょっと哲学です。
疑っていないものを疑問に思うのは、とても難しいことで、結構高等技術です。
なので、相手に「私の言葉を完璧に理解しろ」というのは無理難題です。
まずはこちらがコミュニケーションを学習した上で、誤解のない平易な表現をちまちまとやっていくしかありません。学問に王道はないです。
最近はこんな本を読みました。
やっとこの策が功を奏し始めたのか、昔は「偏屈なやつだ」「宇宙人」という評価が多かったのですが、最近は普通に「頭の回転が早い変態」と手放しで褒めてもらえるようになりました。
「私の価値を伝える」にも、相手を意識するのは効果的です。宇宙人は評価のしようがないですからね!!
私にとって価値があるだけでは駄目
このように、コミュニケーションは「私とあなたの合意を詰めるための、話し手から聞き手への裏ババ抜き」のようなものだと私は思っています。
私にとって価値のある言葉でも、誰にも伝わらなければそれはただの「音」や「線」に過ぎません。
文字だって、何を示しているかがわからなければ、ただの線の組み合わせです。文字に意味があるのではなく、意味を文字が表しているのです。
「何かの価値」を伝えるために、私たちは「何かの価値」だけではなく、言葉を考えなければならないのです…。
とか言いましたけど、相手に合わせるってすごい難しくてスリリングなんですよね。
色々考えすぎると回りくどくなりますし、端的にしすぎると今度は情が削げ落ちてキツく見えたりするものです。
私は後者の気が強いので、できるだけ補完をしつつ書いているのですが、それでも文章を書き始めてそこそこなので、ものすごく難しく感じています。
普通の言葉を使う普通の人なら良かったのですが、中学の頃の「言ってることわかんなかった」事件で私の語彙は難しい可能性があることもわかりましたし、過敏になりつつ書いている節があります。
ちょっとずつでもわかりやすい文章になっていたらいいな、と思う次第です。