タスクにかかった時間を可視化しよう|Togglの使い方
お勉強は1に計画、2に計画。
特に「1日10時間なんて集中力が持たない😂」という、(おそらく)一般的な人間には、計画ってとっても大事です。
大学受験さえ1日2時間しか勉強ができなかった私は、昨年やっぱり1日2時間程度の勉強で国立大学院の受験に成功しました。
(ま、環境の急変で結局行けなかったんですけど!!!!!!)
社会人でしたし、勉強時間は限られていたわけですが、成功の秘訣は「コスパを管理する」こと。
これが学生時代であれば、それはもう10時間でも15時間でも、体力の許す限りやって、「○時間勉強した!!めっちゃ頑張ったわ😇」をすればよいのです。そもそもそれが本業とも言えます。
でも社会人はそうはいかない…。社会人の勉強に必要なのは、「これだけの文章の勉強を○時間で達成して、得点率は△%だった!!」という客観的な振り返りをすることです。
と、まあ、私の持論はこの辺で置いておきましょう。
今回は、お勉強に役立つTogglという便利ツールをご紹介します。
Togglとは一体どんなツールなのか
まずTogglの概要について説明しましょう。
公式の説明ではこんな感じ。
Toggl is the leading time tracking app for agencies, teams and small businesses. A simple time tracker with powerful reports and cross-platform functionalities.
訳すと「いろんなチームで使える!レポート機能とクロスプラットフォーム機能を備えた、シンプルなタイムトラッカーツールです!」って感じです。
メインのユーザーとしてはチームで仕事をするときに利用されることを想定しているようですが、実は勉強で大活躍。
具体的にはこんなところがいい感じです。
- PCでもスマホでも記録できる(ノートや手帳だとこうはいかない)
- アプリをインストールすればオフラインでも記録できる(図書館とかでも安心して使える)
- Googleカレンダーなどと同期できる(後日解説します)
勉強用のタイムトラッカーツールとしては、Studyplusなどの専用のアプリがありますが、Googleカレンダーとの同期はできません。
勉強だけを見ていればいいわけではない社会人にこそおすすめなのが、Togglな訳です。
肝心のGoogleカレンダーとの同期方法については後日解説しますので、しばしお待ちを。
Togglのざっくりとした使い方(SP)
Togglの使い方は簡単です。
Freeバージョンなら、以下に説明する2つの画面を確認するだけで十分でしょう。
記録画面
起動してログインすると、ファンシーな顔をした蜘蛛にお出迎えされます。
右下の矢印(1)をタップすることで記録がスタートできます。
右上のグラフのマーク(2)をタップすると、レポート画面に移動します。
右下の記録ボタンを押すとこんな画面が出てきます。
タイトルやカテゴリなどを適宜入力しましょう。
SAVEするとそのあとに右下に停止ボタンが出てきますが、見ればすぐにわかるので、画像は割愛します。
レポート画面
レポート画面を表示するとこんな感じ。
矢印の部分から参照するレポートの期間が設定できます。
トータルでどれくらい勉強したか、そして毎日何時間勉強したかが可視化されています。わかりやすい!!
スクロールするとまた別のグラフが。
円グラフでどのカテゴリの勉強を何時間したかがわかります。
Togglのざっくりとした使い方(PC)
PCでも使い方はあまり変わりませんが、念の為ざっくりと説明を。
Timer画面
登録したらやっぱりファンシーな蜘蛛がお出迎え。
以下のような画面が出てきます。
そしたら、
- 矢印(1)をクリックしてタスクのタイトルを記入(適宜フォルダとかタグをつけてもよい)
- 矢印(2)の再生ボタンのようなところをクリックすると記録がスタート
- 終わったらまた矢印(2)の部分を押すと記録が停止
基本的な使い方はこれだけ。
あとは記録の内容を確認してみましょう
Dashboard画面
記録した内容はカテゴリ分けをすることで、こんな感じで可視化されます。
カテゴリ分けしないと下の円グラフは表示されませんが、上の棒グラフは出るので、面倒臭ければそれでもよいかと。
ピンクの矢印で示した部分から期間の指定もできます。
具体的な振り返りの仕方
可視化できたところでどうするの? という話ですが。
もちろん人によって使い方は違うと思いますが、私は「勉強に使う時間が好きな教科に偏らないこと」を達成するために、科目ごとの勉強時間を可視化しました。
他にも「土日は平均何時間勉強してるから、試験までにあと何時間勉強できるな」とか、「平日でもこの曜日は結構余裕がありそうだな」とかがチェックできるようになったり。
ぼんやりとしていた勉強のリズムが、グラフにより目で見てはっきりわかるようになります。
最初からできてる人には不要かもしれませんが、「勉強」が苦手な人にはとても便利な機能ではないでしょうか。
今後もTogglを使って勉強を進めていく所存です。のんびりスキルアップします。
ロリポップの更新忘れたわ
タイトルの通りです。
Wordpressも飽きたし(そもそも途中から更新すらしていない)、はてブに戻ってまたちまちま更新しようと思います…。
ただいま移行作業中
理由1 かわいいドメインが取れました
ペンギン好きなので、penguin探してたら「http://penguin.pink/」が取れました。
今のドメイン、無駄に5年契約してたの笑えます。なんでそんなに思い切ったの?
理由2 Wordpressが使いたかった
はてぶろよりカスタマイズが自由なwordpressに魅力を感じました。
会社でwordpress使ってブログ運用してるのが大きいかと思います…いろんなプラグインとかさ、楽しいよね。
今ある記事もじわじわと移行していきます。
これからも継続して購読してくれるのって、脱毛の続きが気になるひとくらいかと思いますが、よければこちらでこれからもよろしくお願いいたします。
洗い流すタイプがオススメ!コールドクリームの使い方
この記事は移転しました
TOEICの得点分布!リスニングの方が簡単っぽい
TOEICの受験を来月に控えている中、なんとなく得点分布が気になったので調べてみました。
平均点が何点だろうと目標は変わらないのですが、わかってるとのとわかってないのとでは頑張り具合が違いますからね。
例えば平均点が50点のテストで80点を取るのと、平均点が90点のテストで80点取るのは心持ちが違う、とかそういう感じのアレです。
使ったデータは2018年1月に実施された公開テストの結果です。公式が発表してくれています。
1年後には見れなくなるデータなので、2019年3月以降は以下のページは見れなくなってるかも。
平均スコア・スコア分布 詳細 (第227回)|TOEIC Listening & Reading Test 公式データ・資料|TOEIC Program|IIBC
文字ばかりで見づらいので、グラフを作りました。
それではグラフを見ていきましょう。
リスニングは320点くらいが多い
リスニングは大体320点くらいを頂点にした分布になっています。
470点以上が結構いるのも印象的ですね。
200点以下のあたりにはあまり人がいないあたりも、聞いてればそれなりに取れるのかもしれません。
必ず最後まで取り組めるので、途中で「時間切れです!! ここから後ろぜ〜〜〜んぶ解けてません!!」というのがないのが作用してるのかも?
リーディングは245点くらいが多い
リーディングは245点を頂点にした分布って感じです。
リスニングに反して200点以下の低い得点の人が結構いる印象。また、470点以上はあまりいません。
リーディングセクションは慣れていない人には結構時間との戦い的なところもありますし、ついでに長いテストで疲れて力尽きた人とかもいるのかもしれませんね。
先ほどリスニングでも言った「時間切れです!! ここから後ろぜ〜〜〜んぶ解けてません!!」が起きるのを危惧している初学者の人って多いはずです。
私も初めて受けた時は問題量にびっくりしました…。
トータルでは545点くらいが多い
リスニングとリーディングの合計は綺麗な山の形!
545点あたりを頂点にした分布です。
700点くらいで上位約30%
こちらはついでにパーセンタイル順位のグラフも作りました。自分が他の人と比べてどれくらい点を取れてるかがわかります。
このグラフでいうと、私はこれまでの最高得点が700点ちょいくらいなんですが、「大体7割の人より点が取れてる」って感じになりますね。
勉強なんて一切したことなかったですとも。大学では一切英語の授業受けてない中の700点なんで、個人的には満足してたんですが…そっか…全体の上位3割くらいか…。しょっぱい。
そして895点取れてても、せいぜい上位4%くらいにしかならないってどういうことなんですかね。25人に1人が取ってるの?すごい…。
私は大学院受験に際して、できれば800点取りたいな(特に計画や具体的根拠はない)と思っているのですが、上位1割くらいということがわかりました。
え??? 800点ってたかが1割でしかないの???? っていうのが正直な感想です。
生まれてこのかた、テストで上位1割って全然困ったことないんですけど。寝てても入れるわって気持ちなんですけど。
だって10人のうち1人でしょ、楽勝じゃね?
ってこれまで生きてたんですけど…、TOEICやばい。このままじゃ800点取れる気がしない現状です。
同級生の中で上位1割はできても、社会で活躍する人とか、本気で頑張ってる人含めての上位1割は難しいってことですね! 当たり前でした!!
(2018/09/23)
移転しました→
IQが20違うと会話は成立しないという俗説について
今日はたまに聞く俗説、IQが20違うと会話成立しない問題についてうだうだしてみます。
成立はするけどそんなに面白くはない
さて、IQが20違うと会話が成立しないとか言いますけど、実際のところどうなんでしょう。
IQ140以上の私が結論から言うと「話はわかるけどお互い面白くないよね」といったところです。
そもそもIQが高いというのは「肉体年齢に比べて精神年齢がどれだけ高い or 低いのか」を表す指標です。
そんなIQについて、肉体年齢と精神年齢のグラフがこちら~。
例えば、肉体年齢20歳でIQ130の人は、精神年齢26歳です。
さて、日本では最低でも6歳から15歳までの9年間は義務教育として学校に通うことになっています。そして人によってはもっと長く、高校とか大学とかに行くでしょう。
学年というのは基本的に同い年の人しかいません。そうなると「周りとの精神年齢が合わない」という現象が起こります。
例えば小学4年生(10歳)のとき、IQが120ある子の精神年齢は小学6年生(12歳)となるためです。
大人になれば「たかが2歳の差」で済むのですが、子どもの2年はとても大きなものです。
これにより「会話が成立しない」が発生します。
そんな生活を、学生である期間中ず~~~~~っとしているのが高IQな人たちです。肉体年齢が増えると、精神年齢の乖離もひどくなるよ。
学習の姿勢の差
小学4年生(10歳)のとき、IQが120ある子の精神年齢は小学6年生(12歳)、その時何が起こるか。
高IQの子は「勉強楽勝で楽しい」とか「勉強簡単すぎてつまんない」とかなってるのに対して、平均的なIQの子は「宿題難しい!!」とかしてるわけです。
私の出会ったIQ高い人は「学校めっちゃ好き!勉強楽しい!」という人と「学校の存在が意味わかんない。自習の方がマシ」みたいな両極端な姿勢が見られるのですが、多分上に書いたような現象が元になっていると思われます。
ついでに「同級生と話する意味がわかんない。自習の方がマシ」みたいな人間も産まれたりします。私のことです。
そしてこれは高IQあるあるみたいです。ググると結構出てくる感じ。
話題の差
IQに差がある同級生とは、話題も合わないことが多いです。読める本とか理解できる話題に差があるので、お互いに「なんかちょっと話題ずれてるんだよね」とかなります。
趣味趣向的なものもあるのですが、かたや世界情勢についてのニュースを見て高IQな子が「ふむふむ、ここにある国とここにある国は、こういう理由で争っているのだなあ」としてる横で、もう片方の普通のIQの子は「意味わかんないからポケモン見せて!!」とかしてたりします。
または同じポケモンを見たにしても、「使役されるポケモンと使役するトレーナーの関係性…コーチングスキル熱い…」とやってる高IQと、「ワニノコかわいい」とやってる平均的なIQの子とかとか。
そんな感じです。一例ですけどね。
色々なことに差がつく生活を強制的に9年間送ると?
これがたくさん積み重なると、最終的に全然違う知識を持った人間になるわけです。
そして結局お互いに「同じテレビの話してるのに番組が全然違う」「同じアニメ見てるのに見てるところが全然違う」とかになってきます。
最終的には「話はわからなくないけどつまんない」になります。日本語は通じるんだけど、その日本語をもってして伝えたいものがあまりに違いすぎるんですよね。
「そんなの普通の人にもあることだよ!」と思うかもしれませんが、問題は「同じ話題についての話ができない」ってところです。
頭の良い人と悪い人の物の見方の違い pic.twitter.com/veezNfo7HO
— micorun🍎みんなのみこるん (@micorun) 2017年5月27日
ちょうどこんな感じ。
同じことへの情報量が違いすぎて、相対的に高IQにとっては刺激のない会話になり、相対的に低IQにとっては情報同士の繋がりが見えない会話になります。
IQ別!IQの差が20以内の人の割合
IQの差が自分と20以内に入る人の人数を出してみました。例えばIQ100の人はIQが80~120の人がどれくらいいるか、って感じです。
「IQの差が20以内を会話が成立する」「IQの差が20より大きいと会話ができない」が仮に本当だとしたら、高IQの過酷さが見えてきますね…。
IQが100(平均)の場合は91%くらいの人が会話できるのに対して、IQが160の人は1%くらいの人としか会話できないことになります。
必ずしも20の差があったら会話できないとは言いませんが、楽しいディスカッションができる人の割合と考えると、あまりに高すぎるIQも生きづらいものです。
高IQにも優しくしてほしい
これは個人的な恨み節にもなっちゃうんですが、世の中は大抵「平均」の人が多いので、平均の人が数の暴力で少数派を苦しめることが多いんですよね。
世の中は「弱者」には優しいんですが、「強者」には厳しいものです。そして高IQは「強者」と捉えられがち。
ちょっと問題になりそうな言い方ですが、知的障害者をいじめるのは「弱いものいじめ」なので、学級会です。「あの子は弱いので、みんなで守らなければならない」のです。
対して高IQで変わった子は「こいつが変わってるから悪いんだ」で、いじめられてても誰も止めてくれなかったりするんですよね。
勉強ができる。その一点で「守らなくていい強者」と認定されてしまうといいますか。
できる人にはみんな厳しい(と唱えてなんとか生き延びてきた)。
この記事を読んでいる人はほとんど大人だと思うのですが、いつか子どもができて、その子が生まれつき高IQだったり、その同級生に高IQの子がいたら、同調圧力から守ってあげてほしいなあなんて思ったりします。
(2018/09/23)
移転しました→
コミュニケーションはキャッチボールではない
カバヤの「脳メシ」っていうブドウ糖食べたらただのラムネでした。
ただのラムネを「脳メシ」と命名するだけで、なんか良さげな感じがするので、言葉ってすごいです。味はマジで普通のラムネです。
今日は、コミュニケーション拗らせて大学で言語学や心理学の勉強をした私が、「コミュニケーション」について書いてみます。
コミュニケーションには相手が必要
もしもブログ書いたりするくらい情報発信が好きな方なら、一般的な人に比べてコミュニケーションについて考えたこともありそうですが、今読んでくださってるあなたはどうでしょう。
そもそもコミュニケーションってなんでしょうね。語源を見てみましょう。
communicate
com-「共に」mun「変える」-ate「する」
お互いの認識を変える
【動】やりとりする
要するに、「お互いが変わる」というのが語源らしいです。双方のやり取り、ということですね。ふむ。
ですが、私は「コミュニケーションは受け手が決める」という言葉がとても好きです。
コミュニケーションはキャッチボールではない
コミュニケーションは双方のやり取りではありますが、そのコミュニケーションについて決めるのは、必ず受け手だと思っています。
というのも、コミュニケーションは「キャッチボール」ではないからです。
キャッチボールというのは、ボールを投げあいます。
私があなたにボールを投げても、あなたが私にボールを投げても、ボールはボールのままなのです。
これを言葉に置き換えたなら、私があなたに言葉を投げても、あなたが私に言葉を投げても、言葉は言葉のままということ。
でも、これが本当なら「誤解」は生じないはずです。
実際は、言葉は変質します。
同じ「馬鹿」でも、普段のふざけ合いで友人が言ってくるものと、今にも別れそうな険悪なカップルが発するものと、取引先で大失敗した部下に対して上司が言うものでは、全然違うのです。
私は、コミュニケーションは「トランプの表裏を反対にしたババ抜き」のような状態だと思っています。
私があなたにトランプを見せた時は、すべて同じ柄に見えるのですが、あなたにはいくつかの色や数字が示されています。
逆に、あなたが私にトランプを見せた時は、いくつかの色や数字が示されていますが、あなたからみたらひとつの柄しか見えないのです。
コミュニケーションの難しいところは、「話し手にとっては意味はひとつなのだけれど、聞き手にとっては意味がたくさんある」というところなのです。
そしてこれは当たり前で、毎日誰にでも起こっていることです。
もしも「この人は私のことを理解してくれない」という状況であれば、あなたは手札の説明をしなさすぎの可能性があるわけです。
私の発した言葉を、あなたがどのように汲むかはあなたの自由で、私にできる一番穏便でお互いにとって幸福な策は「意味の選択肢を少なくすること」です。
つまり、カードを見せるだけではなく、補足情報として「私は赤いハートの4を意図してこれを発言しました」ということも伝えるのです。
ここで、相手が「赤」「ハート」「4」を理解できるか、ということにも気をつけた方が良いです。
私の常識は相手の非常識。
相手にとってわからない情報を投げ続けているのは、もはやババ抜きでもなんでもなく、ただのギャンブルか、時間の無駄です。
私が中学校卒業時に友達に言われたこと
私が「コミュニケーションはキャッチボールじゃないんだな」と気づいたのは、中学校の卒業式です。
ありがたい校長のお話でも、先生のお話でもなく、同級生の一言でした。
卒業まで2年間仲良くしていた同級生に、「雁ヶ金の話してること、難しくて半分も意味わかってなかったかも」とあっけらかんと言われたのです。
びっくりしました。人生で一番の気づきの瞬間だったかもしれません。これがきっかけで文学部で言語学専攻しましたし、10年後の今もこうして、コミュニケーションについて語っている状況です。
日本語として全く問題のない文章でも、相手が意味を知らなければ、それはコミュニケーションとして成立しないのです…。
タイトルの通りIQ140の私は、常日頃から難しい言葉を使いがちだったようなのですが、大人には問題なく伝わるのでなんとも思っていませんでした。
それが、まさか同級生には伝わっていなかったなんて…。
彼女は「でもわかんないって言ったら馬鹿だと思われるかなと思ってて、適当に話してたの!」と言っていました。良い子でした。
日常だけではなくビジネスでも大事
「わかんないならわかんないって言ってね」と言えたら解決になるかと言うと、そういうものでもないのがコミュニケーションの難しいところです。
なぜかと言うと、相手が「そういう意味である」ということを疑っていないからです。あなたに見えている赤が、他の人にとっての青だとしてもわからない…みたいな、そんな感じです。ちょっと哲学です。
疑っていないものを疑問に思うのは、とても難しいことで、結構高等技術です。
なので、相手に「私の言葉を完璧に理解しろ」というのは無理難題です。
まずはこちらがコミュニケーションを学習した上で、誤解のない平易な表現をちまちまとやっていくしかありません。学問に王道はないです。
最近はこんな本を読みました。
やっとこの策が功を奏し始めたのか、昔は「偏屈なやつだ」「宇宙人」という評価が多かったのですが、最近は普通に「頭の回転が早い変態」と手放しで褒めてもらえるようになりました。
「私の価値を伝える」にも、相手を意識するのは効果的です。宇宙人は評価のしようがないですからね!!
私にとって価値があるだけでは駄目
このように、コミュニケーションは「私とあなたの合意を詰めるための、話し手から聞き手への裏ババ抜き」のようなものだと私は思っています。
私にとって価値のある言葉でも、誰にも伝わらなければそれはただの「音」や「線」に過ぎません。
文字だって、何を示しているかがわからなければ、ただの線の組み合わせです。文字に意味があるのではなく、意味を文字が表しているのです。
「何かの価値」を伝えるために、私たちは「何かの価値」だけではなく、言葉を考えなければならないのです…。
とか言いましたけど、相手に合わせるってすごい難しくてスリリングなんですよね。
色々考えすぎると回りくどくなりますし、端的にしすぎると今度は情が削げ落ちてキツく見えたりするものです。
私は後者の気が強いので、できるだけ補完をしつつ書いているのですが、それでも文章を書き始めてそこそこなので、ものすごく難しく感じています。
普通の言葉を使う普通の人なら良かったのですが、中学の頃の「言ってることわかんなかった」事件で私の語彙は難しい可能性があることもわかりましたし、過敏になりつつ書いている節があります。
ちょっとずつでもわかりやすい文章になっていたらいいな、と思う次第です。
「嫌い」を口にしない方がいい理由
金土日と熱で寝込んだのですが、まだ頭の芯がぼんやりしています。
インフルではないらしいとのことなので一安心なのですが、早く体調復帰してほしいところです。
なぜ「嫌い」と言ってはいけないのか
みなさん、なんで「嫌い」を口に出したらいけないのか考えたことありますか? 私は小さいころから、ずっと不思議に思っていました。
例えば「あなたのことが好き」と言うのはたいていの場合良いとしても、「あなたのことが嫌い」と言うのはたいていの場合駄目なんです。
それが同じ大きさの気持ちだとしても、「好き」は許されるけれど、「嫌い」は伝えることを許されません。
それってなぜなんでしょう。
10年以上考えてきて、今のところの答えをまとめてみます。
「嫌い」は敵意だから
まず、「あなたのことが嫌い」という人が現れたらどう感じるでしょうか。なんとなく怖くないですか?
真っ先に「なんの狙いがあってこの人はここにいるんだ」と身構えてしまいます。
このようなことは社会生活上、好ましいこととは言えません。自分以外は全員他人なわけですから、何を考えているかわかりません。
自分の敵かもしれない人の存在を感じるのは恐ろしいというのは当たり前で、恐ろしい存在がいるというのは精神衛生上よくない。
そのためでしょうか。例えば、礼の姿勢として、日本では「お辞儀」をします。
諸説ありますが、頭を下げることにより目線をそらし、「あなたを狙っているのではありません」ということを表明できますし、さらに首を差し出すことにより「今この瞬間私の首を落とせるでしょう。そのような無防備な姿を晒すくらい、あなたに信頼を寄せていますよ」ということを表明しているとかなんとか。
他人と他人のコミュニケーションにおいて、「敵意がない」というのを示すのは、落ち着いて会話をするための第一歩なわけです。
よって、「嫌い」ということにより、一種の敵意を示すのは、「コミュニケーションの拒否」を表すわけです。
今回は「あなた」が主軸だったので、想像がつきやすかったかもしれないですね。
それでは、これが例えば「本」だとしたらどうでしょう。
あなたの好きな「本」が否定された時は「あなた」についての否定ではないわけですけれど、多分いい気分はしないですよね。
これは恐怖ではないと思われます。
「好き」な人が傷つくから
なんとなく訪れた本屋で、自分が好きな本を「この本嫌い」と友人に言われた時、どう思うでしょうか。
おそらく何かモヤ…とするでしょう。
そのために友達をやめる、ということはあまりないかもしれませんが、場合によってはあるかもしれませんね。アイドルの誰推しとかそんな話聞いてる限り、そんな気配を感じます。
自分ではないものを否定されただけなのに、なんかモヤモヤする。これは「バランス理論」で説明ができます。
まず、私と友人が同じ本を好きだった場合は、スッキリです。
それと同じように、私が嫌いで、敵が好きな本という状況も、スッキリです。均衡が取れています。嫌いな奴が好きなものなんてどうせろくなものじゃないんですよ(という理論です)。
ここからが問題で、まず、私が好きな本を敵が好きな場合。
この場合は「相手にその本を嫌いになってもらう」か「自分がその本を嫌いになる」、「相手のことを好きになる」という状況にならないと、なんだかモヤモヤします。これが不均衡な状態です。
学校なり職場なりで、嫌いな人と服が被ったら「うわっ」てなりませんか? それです。
また、これも不均衡の例なのですが、私が嫌いな本を友人が好きな場合。
この場合も「相手にその本を嫌いになってもらう」か「自分がその本を好きになる」、「相手のことを嫌いになる」という状況にならないとモヤモヤします。
大切な友人が、ものすごく男癖なり女癖なり悪いやつと付き合い始めた時の「うわっ」て感じですかね。
さて、なんかごちゃついてきましたが、相手と仲良くしたいということを考えると、この図が一番良いわけです。
「相手も私も同じものが好き」という状況ですね。すごくハッピーです。
念のために言っておくと、同じ均衡状態でも、「相手も私も同じものが嫌い」は正面から殺し合うので良くないです。
相手と仲良くしたいという思惑があるのであれば、「相手の好きなものを嫌いと言わない」のは大事なことで、ついでに言うと、「相手の好きなものがわからないならむやみに嫌いなものの話をしない」ってことです。
知らない間に地雷踏み抜いて、相手にモヤモヤを植え付ける可能性があるからです。
ここで生まれるのが、「じゃあ嫌い同士なら嫌いって言っても良くない?」という疑問です。
「嫌い」は発展しないから
最後に、「嫌い同士の集まりは駄目なのか」という話です。
個人的には、ある程度はいいと思います。
人間なので、好き嫌いあって当たり前。嫌いを吐き出すにも場所が必要なら、同じ「嫌い」同士で集まって、小さくまとめてポイが一番だからです。
ですが「嫌い」の終わりは「滅び」しかないのでは? というのを考えると、嫌いを考えるのはあまり良くないと思っています。
よく「争いは何も生まないんだ」と言いますが、ある程度目的があって、それを決着させるためのぶつかり合いなら何かを産むことはあるでしょう。
ですが、「嫌い」ってもう着地点が決まってるんですよね。特に何かの決着を求めている訳ではなく、「嫌い」から始まって「嫌い」に終わるんです。
早い話が徒労である可能性が高いです。時間の無駄です。
それなら「好き」も着地点が決まっているか、というと、確かに着地点は決まってるんですよね。
でも、「好き」から始まるとタテヨコに広がりを見せることが多いです。主観ですかね?
あれが好きなので、これも好き。それじゃあこれに関係するこれについて、もっと調べてみよう! というふうになりませんか?
これが「嫌い」だった場合はどうでしょうか。結構横滑りを続けるだけではないでしょうか。あれも嫌い、これも嫌い、だからそれも嫌い。
結局身の回りに溢れるのは、触りたくもない気持ちの悪い「嫌いなもの」ばかりになってる…というわけです。
ゾッとしますね。嫌いなものについて「嫌い嫌い」とするのは、ほどほどにしないと、嫌いなもので溺れてしまうわけです。
なので、「好き」に目を向けた方が、物事は深掘りしやすく、なおかつ幸せです。
多分、自分のために「嫌いなもの」はできるだけそっとしておいて、「好きなもの」を考えた方がいいのです。考えれば考えるほど増えるのが知識なので。
ひとりで生きてるのでなければやめといた方がいい
結論として、「嫌い」はひとりで生活していく上では問題ないけど、やりすぎると「社会」を滅ぼすので良くない。
「あれが嫌いこれが嫌い」と言って生活できるのはおそらくインターネットの中だけですね。
全世界が一瞬で繋がる世界なので、自分の嫌いなものは徹底的に排除しても、誰かしら仲良くなれる人がいるわけです。
現実世界で社畜とか学生とかしていくには、肉体がある以上行動範囲も限られたものですし、夜道で刺されたらおしまいなので「好きなもの」を積極的に考えておいた方が良さそうです。
それでもまあ、あんまりにもアレな時には嫌いなことを言うのは良いでしょう。そういう時には、特に心を許した友人か、インターネットの大海に放流するのがおすすめ…というのが、私の今の結論です。